明治のナイチンゲール
大関 和(1858~1932)は大田原市黒羽地区の出身です。
看護師の育成や公衆衛生の普及など看護史に大きな功績を残しました。
大関 和 生誕の地記念碑
記念碑は大田原市立黒羽小学校前の、和の生家があったと考えられている場所に建立されました。
大関 和の出前授業
講師は医師・教育者として半世紀のキャリアを持つ屋代 隆氏(那須短期大学看護学科学長)
一人の女性が成し遂げた偉業の全容と、現代医療に通じる情熱と哲学を解き明かします。
京都「栃木•大田原•黒羽フェスタin清水寺❗️」
全国に世界にイチゴや栃木の観光、大関和を発信して参りました。
「大関和のふるさと黒羽地区活性化協議会」
大関和「石碑」前での地域交流・PR活動
来訪者の皆さまに大関和の功績や黒羽地区の魅力をお伝えしながら、地域の発信に努めてまいります.。

大関 和(おおぜきちか)

 下野の黒羽藩の国家老であった大関増虎(弾右衛門)とその妻のテツの次女として生まれる。その名は 大関 和。 のちに「明治のナイチンゲール」と呼ばれることになる女性です。幼いころから、ちかは人の痛みや苦しみに敏感でした。 病に伏す人がいれば、そっと寄り添い、冷たい額に手を当て、できる限りのことをしようとする。その姿は、周囲の大人たちの心を温かくするほどでした。
 やがて明治の世が進むにつれ、地域にはさまざまな病が広がり、医療体制もまだ十分ではありませんでした。医師の手が足りず、看護という概念すら曖昧だった時代。そんな中で、ちかは迷うことなく看護の道へと歩み出します。
 「目の前の命を救いたい」 その一心で、彼女は医師のそばで技術を学び、昼夜を問わず患者のもとへ駆けつけました。 時には家族のように寄り添い、時には厳しく励まし、時にはただ静かに手を握る。その献身的な姿勢は、やがて地域の人々の間で語り継がれ、「明治のナイチンゲール」 と呼ばれるようになります。
 感染症が流行したある年、ちかは危険を顧みず、倒れる寸前まで看護を続けました。「自分が動かなければ、救える命が救えない」 その信念は揺らぐことなく、彼女の背中を押し続けました。ちかのもとで看護を学んだ若い女性たちは、のちに地域の医療を支える存在となり、 彼女の精神は静かに、しかし確かに受け継がれていきます。
 大関ちかは、華やかな称号を求めたわけではありません。ただ、目の前の人を救いたいという思いだけで生きた女性でした。 その生涯は、今も那須の地に息づき、「人に寄り添うとはどういうことか」を静かに語り続けています。

6月20日(土)~7月5日(日) 開催

大関 和ゆかりの地をめぐる 歴史と自然の旅

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